ちょっと田舎暮らし
2012 / 01 / 31 ( Tue )
10年近く住んだ埼玉を離れることになった。
大宮に4年、上尾に6年。
前職の嫌な思い出や、自然の事などまるで考えていない役所、
計画性ゼロの汚い町並みなどのせいで早く出たいとは思っていたが、
これだけ長く住むと愛着のようなものも湧いているようで、
少し寂しくもある。

家の前の通り。収穫されないカリン畑にクリーニング屋。

ヒヨドリとムクドリだけはやってくる近くの公園。無職の間はここで縄跳びしてたっけ。

高崎線沿いの道。
この近くのマンション入り口の看板に、とても大きなオニグモが巣を作っていて、この町の主と呼んでいた。
目立つ場所だが夜の間だけ姿を表すので誰も気づかないようだった。こんな自然の無い町に似つかわしく
ない主の姿、いつか写真に収めようと思いつつ実現出来なかったことが、この町で唯一の心残りかもしれない。

通勤で毎日通った駅ホーム沿いの道。
フェンスに絡む植物はイモムシなどのブログネタを提供してくれた。

通勤には便利だったけれど、住宅ばかりでつくづく本当に自然の無い町だったなあ。
しかし転出手続きをしにいった上尾市役所にて、意外なものを発見。

役所内の吹き抜けに堂々たる「ぬカカ」の文字。どう見てもぬかかと書いてある。
「ヌカカのように嫌われても追い払われても、決して諦めるな」というメッセージだろうか。
意外と自分好みのマニアックな町だったのかなあなどと馬鹿な事を考えつつ、手続きを終えた。
というわけで、現在は東京都あきる野市におります。
田舎というほどでもないですが、しかし念願の自然が身近にある暮らしです。
早くフィールドを見て歩きたいのですが、仕事の忙しさに加え、引っ越し、荷解き、
各種手続きなどに追われている状況です。生活を整えつつ、ちょっとずつ更新して
いきたいと思います。
大宮に4年、上尾に6年。
前職の嫌な思い出や、自然の事などまるで考えていない役所、
計画性ゼロの汚い町並みなどのせいで早く出たいとは思っていたが、
これだけ長く住むと愛着のようなものも湧いているようで、
少し寂しくもある。

家の前の通り。収穫されないカリン畑にクリーニング屋。

ヒヨドリとムクドリだけはやってくる近くの公園。無職の間はここで縄跳びしてたっけ。

高崎線沿いの道。
この近くのマンション入り口の看板に、とても大きなオニグモが巣を作っていて、この町の主と呼んでいた。
目立つ場所だが夜の間だけ姿を表すので誰も気づかないようだった。こんな自然の無い町に似つかわしく
ない主の姿、いつか写真に収めようと思いつつ実現出来なかったことが、この町で唯一の心残りかもしれない。

通勤で毎日通った駅ホーム沿いの道。
フェンスに絡む植物はイモムシなどのブログネタを提供してくれた。

通勤には便利だったけれど、住宅ばかりでつくづく本当に自然の無い町だったなあ。
しかし転出手続きをしにいった上尾市役所にて、意外なものを発見。

役所内の吹き抜けに堂々たる「ぬカカ」の文字。どう見てもぬかかと書いてある。
「ヌカカのように嫌われても追い払われても、決して諦めるな」というメッセージだろうか。
意外と自分好みのマニアックな町だったのかなあなどと馬鹿な事を考えつつ、手続きを終えた。
というわけで、現在は東京都あきる野市におります。
田舎というほどでもないですが、しかし念願の自然が身近にある暮らしです。
早くフィールドを見て歩きたいのですが、仕事の忙しさに加え、引っ越し、荷解き、
各種手続きなどに追われている状況です。生活を整えつつ、ちょっとずつ更新して
いきたいと思います。
2011
2011 / 12 / 31 ( Sat )
壮絶な一年だった。
アフリカ旅行が今年の2月だったなんて、ちょっと信じられない。
もっと何年も前のことのように感じる。
震災の影響は、それはもう言語を絶するものだったが、それ以上にやはり原発
が真っ黒な影を落とし続けている。
先日テレビで放映されていた「借りぐらしのアリエッティ」のエンディングの中で、
少年から手渡された摘みたての野いちごをアリエッティが食べるシーンがあった
のだが、いま東北地方や関東地方ではこんなことすら気軽にはできない。
原発事故によって、いままで何気なく観ていた映画のワンシーンが無意味なもの
になってしまったような気がして、妙に悲しくなった。

東電、政府、マスコミなどの動きを見ていると絶望的な気持ちになるが、しかしその
中でも自分なりの意志と希望を持って生きていかねばと思う。
今年一年、当ブログにお付き合いいただいたみなさま、本当にありがとうございました。
心よりお礼申し上げます。11月以降は仕事が忙しくてほとんど更新出来なかったので、
来年はもう少しきちんとやっていきたいなと思います。
この冬が終わったら、例年通りに生きものたちの賑わいが戻ってくることを、そして来年
は明るいニュースが多いことを願いつつ、2011結びのご挨拶といたします。
アフリカ旅行が今年の2月だったなんて、ちょっと信じられない。
もっと何年も前のことのように感じる。
震災の影響は、それはもう言語を絶するものだったが、それ以上にやはり原発
が真っ黒な影を落とし続けている。
先日テレビで放映されていた「借りぐらしのアリエッティ」のエンディングの中で、
少年から手渡された摘みたての野いちごをアリエッティが食べるシーンがあった
のだが、いま東北地方や関東地方ではこんなことすら気軽にはできない。
原発事故によって、いままで何気なく観ていた映画のワンシーンが無意味なもの
になってしまったような気がして、妙に悲しくなった。

東電、政府、マスコミなどの動きを見ていると絶望的な気持ちになるが、しかしその
中でも自分なりの意志と希望を持って生きていかねばと思う。
今年一年、当ブログにお付き合いいただいたみなさま、本当にありがとうございました。
心よりお礼申し上げます。11月以降は仕事が忙しくてほとんど更新出来なかったので、
来年はもう少しきちんとやっていきたいなと思います。
この冬が終わったら、例年通りに生きものたちの賑わいが戻ってくることを、そして来年
は明るいニュースが多いことを願いつつ、2011結びのご挨拶といたします。
福島県、そして郡山市 原発事故の影響
2011 / 07 / 12 ( Tue )
5月に浜通りを訪れた際、海沿いを南下していくと検問に行き当たった。
4月22日より始まった、警戒区域の検問だった。

〈2011年5月5日〉
南相馬市、福島第一原発からほぼ真北に20kmの地点。
おだやかな春色に染まった里山風景の中、そこだけが異質な空気だった。

〈2011年5月5日〉
そのすぐ脇にあるコンビニ駐車場の一画は自衛隊の待機所のようになっていて、ここで防護服を脱ぎ着する人もいた。
コンビニの中に入ると、少ないながらに食べ物も陳列されていた。

〈2011年5月5日〉
交通量の少ない道は無人での通行止め。
あちこちに津波で壊れた車が見られた。

〈2011年5月5日〉
災害対策基本法により立入禁止。
コンビニで降りた以外は車の窓を開けず、ほとんど人影のない南相馬市や飯舘村を通って郡山へ帰った。
あくまで個人的な感覚だが、郡山市では外を歩いている人の9割がマスクをしていない。
初めは「いったい何を考えているんだ」と思ったが、実家に二週間滞在してみてよくわかった。
あまりにもこれまでの日常と変わらないのだ。放射能は無色無臭、何も感じない中で生活して
いると「危険だ」という感覚はあっという間に薄れてしまう。それはもう驚くほどに。
自分と家族を守るのは「正しい情報」そして「強い意志」だけだと思った。
さて、母親が友達から線量計を借りてきて家の周りを測定したというので、数値を書き留めておいた。
*********************************************************************************
2011年5月31日 郡山市大槻町某所の放射線量 (単位はマイクロシーベルト/時)
室内(団地4階)-------------------------0.11
室内 北側窓際(団地4階)-------------0.20
玄関の三和土(団地4階)---------------0.16
ベランダ 鉢植えの土(団地4階)------0.30
団地1階のコンクリ-----------------------0.53
団地周辺の地面---------------------------1.72
*********************************************************************************
4階はかなりマシな方だ。しかし地面の線量はかなり高い。
一年中そこに滞在していると仮定すれば、15ミリシーベルト/時を超えてしまう。
「ずっと外にいるわけないだろ」という意見もあり、確かにその通りなのだが、内部被曝のことも
考えなくてはならないし、低線量被曝の影響だって科学的にはまだまだわからないことが多い。
また、郡山はとても風が強い。強風が吹くたびに、砂埃とともに放射性物質が舞い上がって、人々の
肺を汚染しているのではないかという心配もある。
国が避難命令を出してくれさえすれば苦しまなくて済む人がどれだけいるだろう。

〈2011年5月11日〉
いつも犬の散歩に行く郡山カルチャーパークの周辺、田んぼでは例年と変わらず田植えが行われていた。

〈2011年5月25日〉
もし豊作になっても、この米は食べられないだろうし、食べるべきではない。
農家の方は辛いだろうけれど、出荷はせず、国や東電の補償を得ることを考えてほしいと思う。
郡山市のスーパーでは福島県産や茨城県産の野菜が大半を占めている。
まじめに安全性を考えるなら、西日本から取り寄せるしかないのが実情だ。
この記事をアップした7月12日には、南相馬市から出荷された牛肉から基準値を越える放射性セシウムが
検出され、しかもそれが全国に流通してすでに消費されているとニュースが報じた。
よく「風評被害が困る」という話を耳にするが、実際に汚染されていれば、それは「風評」ではない。
テレビの情報や役所の対応に身を任せているだけでは、安全は確保できない。
それが2011年の現実と、認めなくてはならないと思う。
4月22日より始まった、警戒区域の検問だった。

〈2011年5月5日〉
南相馬市、福島第一原発からほぼ真北に20kmの地点。
おだやかな春色に染まった里山風景の中、そこだけが異質な空気だった。

〈2011年5月5日〉
そのすぐ脇にあるコンビニ駐車場の一画は自衛隊の待機所のようになっていて、ここで防護服を脱ぎ着する人もいた。
コンビニの中に入ると、少ないながらに食べ物も陳列されていた。

〈2011年5月5日〉
交通量の少ない道は無人での通行止め。
あちこちに津波で壊れた車が見られた。

〈2011年5月5日〉
災害対策基本法により立入禁止。
コンビニで降りた以外は車の窓を開けず、ほとんど人影のない南相馬市や飯舘村を通って郡山へ帰った。
あくまで個人的な感覚だが、郡山市では外を歩いている人の9割がマスクをしていない。
初めは「いったい何を考えているんだ」と思ったが、実家に二週間滞在してみてよくわかった。
あまりにもこれまでの日常と変わらないのだ。放射能は無色無臭、何も感じない中で生活して
いると「危険だ」という感覚はあっという間に薄れてしまう。それはもう驚くほどに。
自分と家族を守るのは「正しい情報」そして「強い意志」だけだと思った。
さて、母親が友達から線量計を借りてきて家の周りを測定したというので、数値を書き留めておいた。
*********************************************************************************
2011年5月31日 郡山市大槻町某所の放射線量 (単位はマイクロシーベルト/時)
室内(団地4階)-------------------------0.11
室内 北側窓際(団地4階)-------------0.20
玄関の三和土(団地4階)---------------0.16
ベランダ 鉢植えの土(団地4階)------0.30
団地1階のコンクリ-----------------------0.53
団地周辺の地面---------------------------1.72
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4階はかなりマシな方だ。しかし地面の線量はかなり高い。
一年中そこに滞在していると仮定すれば、15ミリシーベルト/時を超えてしまう。
「ずっと外にいるわけないだろ」という意見もあり、確かにその通りなのだが、内部被曝のことも
考えなくてはならないし、低線量被曝の影響だって科学的にはまだまだわからないことが多い。
また、郡山はとても風が強い。強風が吹くたびに、砂埃とともに放射性物質が舞い上がって、人々の
肺を汚染しているのではないかという心配もある。
国が避難命令を出してくれさえすれば苦しまなくて済む人がどれだけいるだろう。

〈2011年5月11日〉
いつも犬の散歩に行く郡山カルチャーパークの周辺、田んぼでは例年と変わらず田植えが行われていた。

〈2011年5月25日〉
もし豊作になっても、この米は食べられないだろうし、食べるべきではない。
農家の方は辛いだろうけれど、出荷はせず、国や東電の補償を得ることを考えてほしいと思う。
郡山市のスーパーでは福島県産や茨城県産の野菜が大半を占めている。
まじめに安全性を考えるなら、西日本から取り寄せるしかないのが実情だ。
この記事をアップした7月12日には、南相馬市から出荷された牛肉から基準値を越える放射性セシウムが
検出され、しかもそれが全国に流通してすでに消費されているとニュースが報じた。
よく「風評被害が困る」という話を耳にするが、実際に汚染されていれば、それは「風評」ではない。
テレビの情報や役所の対応に身を任せているだけでは、安全は確保できない。
それが2011年の現実と、認めなくてはならないと思う。
福島県浜通り 津波被害のようす
2011 / 06 / 27 ( Mon )
5月帰省の折、最初に訪れたのは浜通りだった。
この時期に被災地に行くことには、批判的な意見もあるだろう。
けれどどうしても、いまの福島を見ておきたかった。
テレビで毎日のように被災地の映像を見ていたけれど、実際に行くと言葉が出ない。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
いったい、何にレンズを向ければいいのかわからない。
前も後ろも、右も左も、見渡すかぎりの“被災地”だった。

〈2011年5月5日 福島県相馬市〉
家があった場所には何も無くなり、何もなかったところには瓦礫とゴミ。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
堤防のあちこちが切れて、海が見えていた。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
その堤防の切れ端は田んぼの中にあった。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
たくさんの消波ブロックも田んぼの中に。海から500mは離れている。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
コンクリートの塊が流されるぐらいだから、船は当然のように流されている。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
この船はまだ使えるだろうか。しかし海に戻すだけでもかなりのお金がかかる。
そして戻せたとしても、この海で漁ができる日がいつになるかはわからない。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
跡形も無いほど破壊された家々のむこうに、原町火力発電所が見えた。
もとあった風景はどんなものだったのか。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
かろうじて基礎だけが残った家々。そして黄色く枯れた竹林。
被災地では至る所で竹林が枯れている。塩害かとも思うのだが、なぜか内陸の郡山でも起きている。
一斉開花が起きた後なのだろうか。まさか放射能の影響ではないだろうが・・・・。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
巨大な鉄塔から送電線が垂れ下がり、地面に固定されていた。
通電はしていないのだろうが、恐怖感がある。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
津波の届いていない場所で、鉄塔の上部がぐにゃりと折れていた。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
ここでも。海沿いの鉄塔が津波で流され、それに引っ張られたのではないだろうか。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
あちこちに瓦礫の小山が作られ、そこにブルーシート製の旗が立てられていた。
おそらく“捜索完了箇所"の印なのだろう。

〈2011年5月5日 福島県相馬市〉
捜索の際に掘り出されたのだろう、傷ついた大黒様が路肩に佇んでいた。
仏像などがこうして路上に置かれている様子はあちこちで見られた。
日本国内の出来事とも、自分の故郷の光景とも思えず、ふわふわと現実感が無くなることが何度もあった。
そのたびに、壊滅した町のあちこちに立ち籠める強い腐臭で現実に戻される。
すごい時代を生きているな、何故かそんなことが何度も頭に浮かんだ。
この時期に被災地に行くことには、批判的な意見もあるだろう。
けれどどうしても、いまの福島を見ておきたかった。
テレビで毎日のように被災地の映像を見ていたけれど、実際に行くと言葉が出ない。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
いったい、何にレンズを向ければいいのかわからない。
前も後ろも、右も左も、見渡すかぎりの“被災地”だった。

〈2011年5月5日 福島県相馬市〉
家があった場所には何も無くなり、何もなかったところには瓦礫とゴミ。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
堤防のあちこちが切れて、海が見えていた。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
その堤防の切れ端は田んぼの中にあった。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
たくさんの消波ブロックも田んぼの中に。海から500mは離れている。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
コンクリートの塊が流されるぐらいだから、船は当然のように流されている。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
この船はまだ使えるだろうか。しかし海に戻すだけでもかなりのお金がかかる。
そして戻せたとしても、この海で漁ができる日がいつになるかはわからない。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
跡形も無いほど破壊された家々のむこうに、原町火力発電所が見えた。
もとあった風景はどんなものだったのか。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
かろうじて基礎だけが残った家々。そして黄色く枯れた竹林。
被災地では至る所で竹林が枯れている。塩害かとも思うのだが、なぜか内陸の郡山でも起きている。
一斉開花が起きた後なのだろうか。まさか放射能の影響ではないだろうが・・・・。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
巨大な鉄塔から送電線が垂れ下がり、地面に固定されていた。
通電はしていないのだろうが、恐怖感がある。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
津波の届いていない場所で、鉄塔の上部がぐにゃりと折れていた。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
ここでも。海沿いの鉄塔が津波で流され、それに引っ張られたのではないだろうか。

〈2011年5月5日 福島県南相馬市〉
あちこちに瓦礫の小山が作られ、そこにブルーシート製の旗が立てられていた。
おそらく“捜索完了箇所"の印なのだろう。

〈2011年5月5日 福島県相馬市〉
捜索の際に掘り出されたのだろう、傷ついた大黒様が路肩に佇んでいた。
仏像などがこうして路上に置かれている様子はあちこちで見られた。
日本国内の出来事とも、自分の故郷の光景とも思えず、ふわふわと現実感が無くなることが何度もあった。
そのたびに、壊滅した町のあちこちに立ち籠める強い腐臭で現実に戻される。
すごい時代を生きているな、何故かそんなことが何度も頭に浮かんだ。
郡山市 地震被害のようす
2011 / 06 / 12 ( Sun )
5/5~11および5/23~30の合計15日間、郡山の実家に帰っていた。
第一の目的は、震災後一度も会っていない家族の顔を見ること。
第二の目的は、地震で荒れた実家の家の中を片付けること。
ついでに故郷の様子を見ておきたかった。
震災から2ヶ月近く経っていたので、片付けも進み、家の中は普段とさほど変わらないように見えた。
最初に目についたのは天井の傷だった。

この場所には背の高い本棚があり、つっぱり棒で天井に固定されていた。傷はそのつっぱり棒がつけたもの。
激しく長い揺れだったことがよくわかる。最終的に本棚は倒れ、しばらく生活の障害になった。
地震の時、この部屋には妹と犬がいた。
妹は高さ1mぐらいの棚の上に置いた大きなコンポのすぐ下で横になっていた。
あまりの揺れの大きさに慌てて犬に駆け寄ったすぐ後、コンポが崩れ落ちたという。
少しタイミングが遅れていれば危なかった。

〈妹撮影 2011/3/12〉
写真を見ても自分の実家という感じがしない。右手にコンポ、奥に本棚が倒れているのはわかる。
家の中がこれだけ荒れたのに、妹が青アザをいくつか作っただけで済んだのは幸運だったと言うべきなのだろう。
よくぞ無事だった。

〈妹撮影 2011/3/12〉
流しに倒れこむ食器棚。生まれて初めてこの棚の背中を見た。
食器の大半が割れて散らばったため、裸足で歩けないし料理もできなかったという。
郡山の市街地を車で走ると、瓦屋根の家ではブルーシートが標準装備。
古い建物では立ち入れなくなったものも多くある。中でも派手に壊れたのがこのビル。

〈2011/5/10〉

〈2011/5/10〉
1階が完全に潰れている。犠牲者が出なくて幸いだった。
一見して古いビルだとわかる。周辺の道路は通行止めになっていた。

〈2011/5/10〉
実家最寄りのホームセンターの裏、住宅地の一画では法面が崩壊。直上の住民は避難したようだ。

〈2011/5/10〉
郡山駅近くの星総合病院では、渡り廊下らしき部分が崩落。壁にも亀裂が走り、病院機能の多くが停止した。
現在はプレハブ設置や改修によって、入院もできるようになった。

〈2011/5/10〉
病院のすぐ脇にある阿邪詞根(あさかね)神社。1058~1065年に建てられたという歴史あるものらしい。
建物はそれほど古くないようだけれど。かろうじて狛犬は台座から落ちずに済んだ。

〈2011/5/30〉
うちの実家は団地。そのうちの一棟で地震後に爆発音が発生、たくさんの緊急車両が押し寄せて騒然となったという。
どうやらその棟は十数センチ傾いたらしく、全世帯に避難勧告が出された。みんな慌てて出ていったのだろう、大量の粗大ごみが積み上がって道路まではみ出していた。2ヶ月以上経った5月末時点でまったく回収されていなかった。
余震が起きるたびに、家族が震度を正確に言い当てるのに驚いた。実家は団地の4階なので、実際の震度より1~2段階ほど大きく揺れるようだ。3月11日の郡山市の震度は6弱。ということは、単純に考えるとこの部屋では6強~7だった可能性がある。震災から3ヶ月経ったのに、未だに震度1以上の余震が日に10回程度あるという。実際、私の滞在中だった5/25にも福島県内では震度5弱の地震があった。とりあえず地震だけでも、このまま収束に向かってほしいものだ。
第一の目的は、震災後一度も会っていない家族の顔を見ること。
第二の目的は、地震で荒れた実家の家の中を片付けること。
ついでに故郷の様子を見ておきたかった。
震災から2ヶ月近く経っていたので、片付けも進み、家の中は普段とさほど変わらないように見えた。
最初に目についたのは天井の傷だった。

この場所には背の高い本棚があり、つっぱり棒で天井に固定されていた。傷はそのつっぱり棒がつけたもの。
激しく長い揺れだったことがよくわかる。最終的に本棚は倒れ、しばらく生活の障害になった。
地震の時、この部屋には妹と犬がいた。
妹は高さ1mぐらいの棚の上に置いた大きなコンポのすぐ下で横になっていた。
あまりの揺れの大きさに慌てて犬に駆け寄ったすぐ後、コンポが崩れ落ちたという。
少しタイミングが遅れていれば危なかった。

〈妹撮影 2011/3/12〉
写真を見ても自分の実家という感じがしない。右手にコンポ、奥に本棚が倒れているのはわかる。
家の中がこれだけ荒れたのに、妹が青アザをいくつか作っただけで済んだのは幸運だったと言うべきなのだろう。
よくぞ無事だった。

〈妹撮影 2011/3/12〉
流しに倒れこむ食器棚。生まれて初めてこの棚の背中を見た。
食器の大半が割れて散らばったため、裸足で歩けないし料理もできなかったという。
郡山の市街地を車で走ると、瓦屋根の家ではブルーシートが標準装備。
古い建物では立ち入れなくなったものも多くある。中でも派手に壊れたのがこのビル。

〈2011/5/10〉

〈2011/5/10〉
1階が完全に潰れている。犠牲者が出なくて幸いだった。
一見して古いビルだとわかる。周辺の道路は通行止めになっていた。

〈2011/5/10〉
実家最寄りのホームセンターの裏、住宅地の一画では法面が崩壊。直上の住民は避難したようだ。

〈2011/5/10〉
郡山駅近くの星総合病院では、渡り廊下らしき部分が崩落。壁にも亀裂が走り、病院機能の多くが停止した。
現在はプレハブ設置や改修によって、入院もできるようになった。

〈2011/5/10〉
病院のすぐ脇にある阿邪詞根(あさかね)神社。1058~1065年に建てられたという歴史あるものらしい。
建物はそれほど古くないようだけれど。かろうじて狛犬は台座から落ちずに済んだ。

〈2011/5/30〉
うちの実家は団地。そのうちの一棟で地震後に爆発音が発生、たくさんの緊急車両が押し寄せて騒然となったという。
どうやらその棟は十数センチ傾いたらしく、全世帯に避難勧告が出された。みんな慌てて出ていったのだろう、大量の粗大ごみが積み上がって道路まではみ出していた。2ヶ月以上経った5月末時点でまったく回収されていなかった。
余震が起きるたびに、家族が震度を正確に言い当てるのに驚いた。実家は団地の4階なので、実際の震度より1~2段階ほど大きく揺れるようだ。3月11日の郡山市の震度は6弱。ということは、単純に考えるとこの部屋では6強~7だった可能性がある。震災から3ヶ月経ったのに、未だに震度1以上の余震が日に10回程度あるという。実際、私の滞在中だった5/25にも福島県内では震度5弱の地震があった。とりあえず地震だけでも、このまま収束に向かってほしいものだ。
震災1ヶ月
2011 / 04 / 12 ( Tue )
昨日で、ちょうど1ヶ月。
毎日のニュースに慣れてしまった自分を見直す日となった。
被災地では今日も、厳しい生活を送っている人々が大勢いるのだ。
情報として知るだけでなく、少しでも現地の感覚を分かちたい。
福島原発の状況は、相変わらず悪くなり続けているようだ。
今日は放射性物質漏洩事故のレベルが「深刻な事故」の7に引き上げられた。
農業、漁業をはじめとする近隣の産業へのダメージは取り返しが付かないほど大きく、
それを生業とする方々の気持ちは、想像することすら難しい。
せめてできることは、同じことを繰り返さないことではないか。
ヨーロッパはチェルノブイリから多くを学んだという。
日本も福島から学び、変えていきたい。
例えばスウェーデンでは、下水汚泥から出るメタンを燃料として使っている。
生活で必ず出るやっかいな汚物が資源となる。
これは江戸時代の日本のような、ムダのない生かし方ではないか。
火山国日本では地熱発電も有効なはず。
地球がある限り資源の枯渇がないうえ、その資源量も日本は世界第3位。
さらに、地熱発電所としては世界最大出力を誇るニュージーランドのナ・アワ・プルア地熱発電所は、
日本の企業によって作られたものだという。資源も技術も持っているのだ。
太陽光や風力も含め、こうした技術にはまだ問題もあるが、研究を進めれば解決できるに違いない。
原子力推進で甘い蜜を吸う連中により、こうした技術開発に予算がまわっていないことが問題だ。
そんな馬鹿げた社会構造を変えよう。
少なくとも若い世代の中で、そうした意識が高まっていることは間違いない。
今回は都知事を替えることはできなかったが、今後の選挙ではこうしたことが主要な争点になっていくと思う。いや、そうなって欲しい。
毎日のニュースに慣れてしまった自分を見直す日となった。
被災地では今日も、厳しい生活を送っている人々が大勢いるのだ。
情報として知るだけでなく、少しでも現地の感覚を分かちたい。
福島原発の状況は、相変わらず悪くなり続けているようだ。
今日は放射性物質漏洩事故のレベルが「深刻な事故」の7に引き上げられた。
農業、漁業をはじめとする近隣の産業へのダメージは取り返しが付かないほど大きく、
それを生業とする方々の気持ちは、想像することすら難しい。
せめてできることは、同じことを繰り返さないことではないか。
ヨーロッパはチェルノブイリから多くを学んだという。
日本も福島から学び、変えていきたい。
例えばスウェーデンでは、下水汚泥から出るメタンを燃料として使っている。
生活で必ず出るやっかいな汚物が資源となる。
これは江戸時代の日本のような、ムダのない生かし方ではないか。
火山国日本では地熱発電も有効なはず。
地球がある限り資源の枯渇がないうえ、その資源量も日本は世界第3位。
さらに、地熱発電所としては世界最大出力を誇るニュージーランドのナ・アワ・プルア地熱発電所は、
日本の企業によって作られたものだという。資源も技術も持っているのだ。
太陽光や風力も含め、こうした技術にはまだ問題もあるが、研究を進めれば解決できるに違いない。
原子力推進で甘い蜜を吸う連中により、こうした技術開発に予算がまわっていないことが問題だ。
そんな馬鹿げた社会構造を変えよう。
少なくとも若い世代の中で、そうした意識が高まっていることは間違いない。
今回は都知事を替えることはできなかったが、今後の選挙ではこうしたことが主要な争点になっていくと思う。いや、そうなって欲しい。
震災一週間
2011 / 03 / 18 ( Fri )
未だに被害の全容を把握することすらできていない、恐るべき規模の災害。
郡山の実家も多少の被害を受けたが、家族親戚はみな無事で、それだけでも本当にありがたい。
亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災者のもとに一日も早く、
十分な物資と応援の声が届くことを心から願う。
一方で、福島第一原発の状況は、日々悪化しているように見える。
これ以上、被災者を追い詰めるようなことにならないように。
そして福島県民が変な偏見・差別の目で見られないことを信じている。
さて、とてもやる気にはなれずにいたが、そろそろブログ更新を再開しようと思う。
一日中テレビとパソコンにかじりつき、原発情報を集め、実家の家族に伝えているが、
新しいニュースはたまにしか入らないので、時間がもったいない。
色々な人の話をネットで見ていると、
「今できることは、自分の仕事・生活をいつも以上に一所懸命にすること」
という記述をけっこう見る。たしかにそうかもしれない。
今の自分にできるのは、寄付と節電といつもの生活ぐらいなのだろう。
家族がいつ避難してきてもいいように、受け入れ態勢を整えつつ、生活リズムを日常に戻すつもり。
郡山の実家も多少の被害を受けたが、家族親戚はみな無事で、それだけでも本当にありがたい。
亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災者のもとに一日も早く、
十分な物資と応援の声が届くことを心から願う。
一方で、福島第一原発の状況は、日々悪化しているように見える。
これ以上、被災者を追い詰めるようなことにならないように。
そして福島県民が変な偏見・差別の目で見られないことを信じている。
さて、とてもやる気にはなれずにいたが、そろそろブログ更新を再開しようと思う。
一日中テレビとパソコンにかじりつき、原発情報を集め、実家の家族に伝えているが、
新しいニュースはたまにしか入らないので、時間がもったいない。
色々な人の話をネットで見ていると、
「今できることは、自分の仕事・生活をいつも以上に一所懸命にすること」
という記述をけっこう見る。たしかにそうかもしれない。
今の自分にできるのは、寄付と節電といつもの生活ぐらいなのだろう。
家族がいつ避難してきてもいいように、受け入れ態勢を整えつつ、生活リズムを日常に戻すつもり。
帰国
2011 / 02 / 18 ( Fri )
前進の年 2011
2011 / 01 / 08 ( Sat )
新年、明けましておめでとうございます。
年末年始は福島の実家で過ごしてきました。
写真は愛犬のモカ、柴犬です。
年齢は13歳を越え、すっかり年寄りになりました。
目は白内障で真っ白、耳も遠くなりました。
久々に帰った私を出迎えないところを見ると、ボケも始まっているようです。
出産に立ち会った身としては寂しいですが、少しでも長生きしてほしいものです。

さて、昨年の最初の記事で書いたとおり、2010年は転機の年となりました。
8年半勤めた自然保護団体を退職したのです。中学生の頃、自然を守る仕事につきたいと
考えてからずっとその夢を追いかけて来たわけですが、ここで一度立ち止まって自分の
人生を考えることにしました。現在は休養をとりながら次の仕事を探しています。
大学生の就職状況を見ていると自分も相当な苦戦が予想されますが、何とか今年は前進
の年にしたいと思います。今まで以上に更新頻度が減るかもしれませんが、時々でも見に
来ていただければ嬉しいです。今年もよろしくお願いします。
年末年始は福島の実家で過ごしてきました。
写真は愛犬のモカ、柴犬です。
年齢は13歳を越え、すっかり年寄りになりました。
目は白内障で真っ白、耳も遠くなりました。
久々に帰った私を出迎えないところを見ると、ボケも始まっているようです。
出産に立ち会った身としては寂しいですが、少しでも長生きしてほしいものです。

さて、昨年の最初の記事で書いたとおり、2010年は転機の年となりました。
8年半勤めた自然保護団体を退職したのです。中学生の頃、自然を守る仕事につきたいと
考えてからずっとその夢を追いかけて来たわけですが、ここで一度立ち止まって自分の
人生を考えることにしました。現在は休養をとりながら次の仕事を探しています。
大学生の就職状況を見ていると自分も相当な苦戦が予想されますが、何とか今年は前進
の年にしたいと思います。今まで以上に更新頻度が減るかもしれませんが、時々でも見に
来ていただければ嬉しいです。今年もよろしくお願いします。
テンプレート変更
2010 / 01 / 05 ( Tue )
ご覧の通り、テンプレートを変更してみました。
今までのも気に入ってはいたのですが、過去記事に遡るのに手間がかかるのが玉にキズでした。
とりあえずしばらくは、このデザインで行ってみようと思います。
今までのも気に入ってはいたのですが、過去記事に遡るのに手間がかかるのが玉にキズでした。
とりあえずしばらくは、このデザインで行ってみようと思います。